確証バイアスの話はやめてくれ

でもする💓

 

『確証バイアス:confirmation bias』とは、心理学用語(主に認知心理学社会心理学の研究領域)で、かいつまんでいえば、人間は自分の信じたいものを信じるために、自分の仮説や持論に適合する証拠を選択的に集め、自分の仮説や持論を反証するような情報や証拠の価値を低く見たり、場合によっては排除したりしてしまうという認知バイアスのことである。これは誰かにあってわたしにはない、あの人には少ないなどというようなことではなく、思考の持つ機能のようなものである。

 

参照URLだよ

↓  ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/確証バイアス 

 

ヘモグロビンに酸素を運ぶなと言っても勝手に運んでしまうように、わたしたちは望むと望まざるとにかかわらず、このバイアスの影響下にある。

 

例を示そう。

 

あなたが車を買ったとする。格別のお気に入り品になったなら、あなたはその車を褒める記事や同じ車に乗っている人の友好的なレビューに目を向け、その車に対する批判的なレビューや、「最悪の車です」などの負の意見に耳を貸しにくくなるだろう。いわく、「この車で文句言うならどの車に乗っても文句言うやろ」などと。

 

逆もまた然りで、何かのきっかけでその車を嫌いになったり、またディーラーの態度や何かから買った時からその車に対して何らかの負の感情を持った場合、あなたはその車の悪い側面を選択的に探していることに気づくかもしれない。その車を褒めている他人の意見をインターネットで見つけたら「企業のステルスマーケティングやな」などと独りごつかもしれない。

 

厄介なことには、この確証バイアスは、知性の高さや教養の広さとは全く関係なく人間すべてに備わっている機能なので(知性や学歴があれば免れるようなことではない)、そういう認知機能がある、自分も陥っているかもしれないという気づきがなければ、むしろ自分の確信の証拠となる情報を立場や職業柄集めやすい分、エリート層や教授などの指導者層、自分で専門性があると思ってしまっている人のほうが陥りやすいとさえいえるかもしれない(確信を強めやすいというか)。

 

わたしは大阪の人間なので、昨今この確証バイアスの影響を強く感じるのがいわゆる「大阪都構想」をめぐる連日の狂騒である。

 

大阪の人間ならご承知の通り、連日新聞や街宣やらラジオやら、またわたしはテレビを見ないので確証は持てないが、多分テレビやらでも、賛成派、反対派でかまびすしくやりあっている。賛成派、反対派のビラにはそれぞれとても刺激的な文字が躍り、相手陣営への批判というより度を過ぎた非難のような言葉も見受けられるように思う。

 

わたしが特に注目しているのが例えばヤフーニュースのコメント欄で(ニュースによって記事に対する読者の感想を述べられる欄がありわたしはここを読むのを楽しみにしている)、何がなんでも賛成、何が何でも反対という人たちは、新たな証拠を示されたとしても、その証拠の所在をデマだとか、相手の派の陰謀だなどと断定してしまっているように見受けられる点である。

 

例えば、賛成派のいう毎日新聞のいわゆる「218億円誤報」のことであるが、感触的にも時期的にもミスリードを感じさせられないこともないが、市の財政局のクーデターというのも、毎日新聞の印象操作というのも、まして共産党を含んだトライアングルの共謀があったとも、直接取材したり決定的な証拠をつかんでいるのでもなければ、このニュースや関連情報だけでは「断定」はできないように思う。

↓  ↓

https://mainichi.jp/articles/20201026/k00/00m/040/061000c  https://mainichi.jp/articles/20201029/k00/00m/040/305000c 

 

また同様に反対派がこのニュースに接した際の、例えば「218億円という数字が本当で、賛成派の松井市長の圧力によって財政局長が事実を曲げさせられた」などという反論も、断定の根拠が何なのかよくわからない。数字の間違いがあったことそのものを否定している人もいる。

 

両派、実に強固に確証バイアスが働き、冷静な判断を欠いているような印象を受ける。

 

先ほどの車の話同様、賛成派はメリットを探すことにのみ腐心し、デメリットを過小評価しがちで、自分に批判的な人を「守旧派だ、既得権者だ」となじる。そうではないひともいると思うのだが。

 

反対派は反対派で、悪いところにのみ注目し、「百害あって一利なし」「論外の代物」などと悪罵する。凡そ、民主主義社会のすることで、なにもメリットがないことなどあるだろうか。

 

100%外れる天気予報ならば、逆を言えば必ず当たる。しかしそんな予報は現実には存在しないので、チャーチルのいう、「最悪だが他のどの方法よりまし」な民主主義に委ねるしかなく、民主主義をその原義的に機能させるには、有権者自身が怜悧に判断することを求められることは言うまでもない。

 

繰り返すが、確証バイアスは、誰かにあってわたしには存在しえない、このこと(例えばこの場合は都構想)に関してだけはありえないなどという類のものではない。食べ物の好き嫌いから、今般の政治情勢、信じている宗教、男性観女性観、自分が得意と思っている専門的な学問領域にいたるまで、わたしたちが認知バイアスの支配から免れられる瞬間などないのだ。

 

この認知機能について知ることでえられる最大の利得は、他者を批判するときに、ほれ見ろあいつは似た証拠ばかり集めて確証バイアスにまみれている意見だ、だから間違っているのだそんな意見になるのだと、非難したり強引に論破するためのツールとしてではなく、自分がある強固な(それゆえに余計に逃れられない)信念に強く囚われているのではないかという自己洞察に至り、持論の検証をすることで、他者の意見に寛容になれたり、またそれによって自明的に完全ではない自分の思考や意見の質を高めてくれることだと思う。

 

人は神ではない。思考の間違いを犯すのは当たり前であるし、今間違っていなくても、まだ間違っていないだけだ。

 

寛容な自己と、より質の良い民主主義を目指すためにも、確証バイアスに関する知識を枕の下に敷いて、、、、、お気に入りの猫動画でも見るか。